父親を亡くし、入院中の母を養っている私――須藤朱莉は、ある大手企業に中途採用された。けれどその実態は仮の結婚相手になる為の口実で、高校時代の初恋相手だった。 二度と好きになってはいけない人。 複雑に絡み合う人間関生活。そしてミステリアスに満ちた6年間の偽装結婚生活が始まった――
view more――17時半 朱莉は那覇空港のお土産屋さんに来ていた。「お母さんと京極さんに何か沖縄のお土産でも買って帰ろうかな……」沖縄名物のちんすこうを手に取った時、朱莉はハッとした。「そうだ。明日香さんが無事出産が終わるまではお母さんや京極さんの前に姿を見せる事は出来ないんだっけ。何かボロが出たらいけないし」手に取ったお土産を元の位置に戻すと朱莉は溜息をついた。折角一カ月半ぶりに東京に帰るのに、母に会うことが出来ないのは何ともやるせないものだった。そしてふと思った。(もし……九条さんがまだ翔先輩の秘書をやっていたなら、九条さんの分だけでもお土産を買って会うことが出来たのに……)そこまで考えて朱莉は首を振った。(馬鹿ね。私ったら。九条さんはもう翔先輩の秘書じゃない。ようやく九条さんは煩わしいことから手が離れたんだろうから、もう九条さんのことは忘れないと)その時、館内放送が流れて朱莉の乗る飛行機のアナウンスが入った。「行かなくちゃ」朱莉は搭乗ゲートへ向かって歩き出した―― 20時半―朱莉は羽田空港で、荷物が届くのを待ちながら先程まで自分が乗っていた飛行機のことを思い出していた。(それにしても驚いたな。まさかビジネスクラスあんなにゆったりした座席だったなんて。明日香さんに感謝しなくちゃ)やがて荷物が回ってくると、朱莉は荷物を取って女子トイレへと向かった。 次に出てきた時には朱莉の姿は妊婦のような恰好へと変わっていた。実は女子トイレに入り、お腹にタオルを入れてスカーフで巻いて来たのである。念の為に朱莉は空港で妊婦の格好をしようと決めていたのだ。タクシー乗り場でタクシーを待ちながら朱莉は思案していた。(そう言えば沖縄へ行く時は京極さんが車を出してくれて、ここまで乗せてくれたんだっけ。色々お世話になったから、一時的に東京に戻って来たことを本当は伝えたいけど……)しかし、それは今の朱莉の立場では叶わない事だった――**** 朱莉が億ションに帰って来たのは22時近くになっていた。「それにしても、今日は雨が降っていなくて本当に良かった。おかげで家の換気が出来るわ」朱莉は窓を開けると、30分程換気をして窓を閉めた。シャワーを浴びて部屋にもどってくると、スマホに3件の着信が入っている。1件目は明日香からで、無事に朱莉が東京へ戻れて安心したこと
「お願いよ、朱莉さん。このままじゃ私不安で……」明日香が涙ながらに朱莉に縋りついてきた。「明日香さん……」あの気の強い明日香が自分に泣いて縋っている。朱莉はそんな明日香を放っておくことは出来なかった。本当は自分で東京まで行って確認してきたいだろうに……。明日香はこれから子供の出産を控えている。妊婦の明日香を不安な気持ちにさせておくわけにはいかない。だから朱莉は頷いた。「分かりました。明日香さん。もし、今日の飛行機の便が取れたならすぐに東京へ向かいます」「本当? それじゃ私が今飛行機を調べるから悪いけど朱莉さんは自宅へ帰って東京へ発つ準備をしておいて貰える? 後は……」明日香はベッドサイドにある棚から名刺入れを取り出すと、しばらくページをめくっていたが何かを見つけたのか1枚引き抜くと朱莉に手渡してきた。「朱莉さん、東京へ着いたらここを尋ねて貰える?」「安西弘樹……興信所?」朱莉は名刺に書かれている文字を読んだ。「その人はね、私の大学時代の恩師なのよ。5年前に大学を辞めて今は興信所の所長を務めているの。私から連絡を入れておくから、朱莉さん、どうかこの人を訪ねて。翔と秘書の事を調べて。お願い」明日香が頭を下げてきたので朱莉は驚いた。「そんな顔を上げて下さい、明日香さん。確かに私1人ではどうしようも出来ないと思います。分かりました。東京に着いたらこの方を訪ねます。だから明日香さんは、お腹の赤ちゃんにさわらないように安静にしていて下さい」朱莉は明日香を元気づけるのだった。 病院を出て朱莉はタクシーを拾うと自宅へ戻った。そしてサークルにいるネイビーを抱き上げた。「ごめんね。ネイビー。私、東京へ行かなくてはならなくなったの。だからペットホテルで待っていてね?」朱莉はネイビーに頬ずりすると、以前利用させてもらったペットホテルに電話を掛けた――「すみません。それでは1週間ほど、お願いします」朱莉はペットホテルの従業員男性に丁寧に頭を下げ、スマホをチェックしてみると明日香からメッセージが届いていた。『朱莉さん、飛行機の手配をしたわ。一応余裕を持たせて18時の便のビジネスクラスを予約したわ。今迄色々酷いことをしてごめんなさい。特にモルディブの件では悪いことをしてしまったと反省してるわ。今は貴女だけが頼りなの。どうかお願いします』「! 明日香さん
そこには仲睦まじげに歩く翔と見知らぬ女性が映っていた。その女性はロングヘアの美しい女性で品の良いカジュアルスーツを着こなし、翔に笑顔を向けて歩いている。それらの写真が様々な角度で何枚も撮影された姿がPC画面に映し出されていたのだ。朱莉は驚いて明日香を見ると、唇を噛み締めて青白い顔をして食い入るように画面を見つめていた。「あ、あの明日香さん……。これは……?」「2日前に突然私のPC用のアドレスにメールが届いたのよ。宛先人は不明だったんだけど……添付ファイルが付いていたわ」明日香は一言一言区切るように話をする。「いつもならそんなの迷惑メールだと思ってチェックをする事も無いんだけど、でもこのファイルの題名が『鳴海翔に関する重要事項』と題名が付いていてつい、開いて見てしまったの。そしたらこんな画像が……」最期の方は震え声だった。明日香の話はまだ続く。「このメールには文章が添えられていたのよ。見る?」「え……? 私が見ても構わないんですか?」「うん……いいわ。と言うか朱莉さんにも読んで貰いたくて……」「分かりました。それでは拝見させていただきます」朱莉は明日香宛に届いたメールを読んだ。『こちらに写っている女性は鳴海翔の新しい女性秘書である<姫宮静香>という女性です。秘書と副社長という立場でありながら、必要以上に2人の距離が近いような気がしたので写真を撮り、ファイルで送らせて頂きました。噂によると鳴海翔の前秘書である<九条琢磨>がクビにされたのは、この女性が進言したとも言われています。以上、報告させていただきます』朱莉はメールを読み終えると明日香を見た。「明日香さん……このメールの相手に何か心当たりはありますか?」「無いわ……あるはず無いじゃない! 私はずっとこの病院のベッドから動けないんだから!」「あ、明日香さん……」(そうだ……。明日香さんは絶対安静の身。それに翔先輩だって東京に行ってからまだ沖縄には来ていないのだから明日香さんに心当たりがあるはずない)「翔……。まさか……この新しい秘書のことを好きに……?」明日香の目には涙が浮かんでいる。「明日香さん……」勿論、朱莉もショックを受けている。朱莉だって翔のことが好きなのだ。だが、今は目の前にいる明日香のことが心配でたまらない。まだ安静が必要とされる状況でこんな写真をメールで送っ
「お客様、それではこちらのお車でよろしいでしょうか?」若い女性社員が朱莉の側に寄ると声をかけてきた。「はい、こちらでお願いします。とても素敵なデザインで、運転席の窓も大きくて見やすいので気に入りました」朱莉は笑顔で答える。朱莉は軽自動車を専門に販売している車の代理店に来ていた。ここは新車から、新古車……いわゆる展示用の車両でほぼ新車に近い車両を扱う店であった。いきなり初心者で新車を買って乗るのは図々しいような気がして、朱莉は敢えて新古車を選んだのだ。しかもたまたま気にいったデザインであったし、カーナビやドライブレコーダーなどは勿論の事、内装も朱莉好みにカスタマイズされていたからである。「それでは手続きを致しますので、店内へお入りください」女性社員に案内されて朱莉は中へと入って行った。それから約1時間後――朱莉は店を出た。事前に車購入時はどのような書類が必要か調べ、必要な物は全て揃えて来たので手続きをスムーズに行う事が出来た。「マンションの地下駐車場の契約も済んでるし……納車までは1週間か。フフフ……楽しみだな」朱莉は笑みを浮かべ、腕時計を見た。時刻は11時少し前を差している。(今からタクシーで明日香さんの病院へ行けばお昼前にはマンションに戻れるかな?)そして朱莉はタクシー乗り場へ向かった―― タクシーに乗る事15分。朱莉は病院へと到着した。翔と新しく契約した書類の書面通り、朱莉は週に2度明日香の元へ洗濯物の交換の為に病院へ足を運んでいた。明日香との会話は殆ど無く、挨拶をする程度だったのが……何故か今日は違った。――コンコン病室のドアをノックしながら朱莉は声をかける。「明日香さん、朱莉です。いらっしゃいますか?」すると中から返事があった。「いるわよ、どうぞ」「失礼します」朱莉は言いながらドアを開ける。「こんにちは、明日香さん。お腹の具合はどうですか?」「そうね……大分調子が良くなってきたわ。」明日香は真剣な眼差しでPC画面を見つめている。おまけに何故か顔色が悪い。(どうしたんだろう? 随分熱心に画面を見ているようだけど……?)「明日香さん、クリーニング済みの着替えを持ってきたので、入れておきますね」朱莉は明日香の衣装ケースにしまいながら声をかける。「ありがとう、朱莉さん。……いつも悪いわね」すると背後か
『朱莉さん、突然黙り込んでどうしましたか?』京極に声をかけられ、朱莉は我に返った。「あ……も、申し訳ありません。大丈夫ですから」『すみません。僕のせいですね。沖縄暮らしの期間について尋ねてしまったから』京極が目を伏せたので、朱莉は慌ててた。「いえ、決してそういうわけではありませんから」『あの、朱莉さん、実は……』その時、画面越しに映る京極からスマホの着信音が聞こえてきた。『すみません、朱莉さん。少し待っていただけますか?』「京極さん?」『……社の者からだ。こんな時間に電話なんて……』それを聞いた朱莉は言った。「京極さん、何か急ぎの用時かもしれません。もう電話切りますので、どうか電話に出てください」『すみません朱莉さん。ではまた明日、お休みなさい』「はい、お休みなさい」そして朱莉はPCの電話を切ると、ため息をついた。「京極さん……こんな時間までまだお仕事なんて大変だな……」朱莉は再びPC画面に目を向け、検索画面を表示した「どんな車にしようかな……」朱莉が見ているのは沖縄にある車販売の代理店のサイトである。明日朱莉は早速車を購入するつもりで、事前に車をチェックしようとしていたのだ。その時、朱莉の目に1台の車が目に止まった。それは白いミニバンの車だった。朱莉の耳に琢磨の言葉が蘇ってくる。『この車は軽自動車だし女性向きの仕様だからいいと思うよ。車を買うときは俺に声をかけてくれれば一緒に選びに行ってあげるよ』「九条さん……元気にしているのかな……?」思わずポツリと呟く朱莉。朱莉は琢磨が東京へ帰ってからは1度しかメッセージのやり取りをしていなかったのである。自分のスマホをタップして琢磨からの最後のメッセージを開いた。『朱莉さん。実はわけがあって、当分朱莉さんとは連絡を取ることが出来なくなってしまった。本当にごめん。翔に何か理不尽なことを言われたら必ず知らせてくれよなんて言っておきながらこんなことになってしまって申し訳ない。いつかまた連絡が取れるようになる日まで、どうかその時までお元気で』 このメッセージを最後に琢磨とは一切連絡が取れなくなってしまった。メッセージを送ってもエラーで戻って来てしまうし、電話を掛けても現在使われておりませんとの内容の音声が流れるばかりである。そこで慌てた朱莉は翔に連絡を入れると意外な事実を聞
朱莉と明日香が沖縄へやって来てから1カ月半が経過しようとしていた。明日香の方は大分切迫早産の危険性が収まり、後半月後には退院出来ることが決まった。そして朱莉は……。――21時過ぎ「それで、今日やっと運転免許が取れたんですよ」朱莉は嬉しそうにパソコンの電話で話をしている。その話し相手は……。『おめでとう、朱莉さん。仮免の運転練習付き合えなくて残念です』「いえ。お気持ちだけで充分です。それに京極さんには毎日電話で運転方法のアドバイスを頂いていたので、こんなに早く免許を取ることが出来たんだと思います。本当にありがとうございます」『いえいえ、朱莉さんの運転テクニックが凄かったんですよ。でも安心しました。朱莉さん最初の頃は声も元気が無さそうだったので、心配だったのですが今では画面越しから素敵な笑顔を見せてくれるようになって。あ、そうだ。今、マロンを連れて来ますね』京極が一度PC画面から姿を消し、次に現れた時はマロンを抱きかかえてやって来た。「マロン……」朱莉はマロンを見て名前を呼んだ。マロンは朱莉を見ると嬉しそうに吠えて尻尾を振っている。 京極との電話は朱莉がこのマンションに引っ越してきた当日から始まった。初めは電話のみだったのだが、朱莉の声が元気が無いの気にした京極が、PCで会話をする事を提案してきたのである。勿論、設定方法は電話で京極に教えて貰いながら朱莉が1人で設定をした。『ところで朱莉さん。今朝のニュースで知ったのですが、本日沖縄で梅雨明けしたそうですね。どうですか? 沖縄の様子は』「はい、午前中までは雨が降っていたのですが午後になって急に天気が回復して青空が見えて、気温も急上昇したんですよ。沖縄ってこんなに梅雨明けがはっきりしているのかと思い、びっくりしました」『そうなんですか……。でもそう言えば今日の朱莉さんは真夏らしい恰好をしていますよね。こちらは冷たい雨が降っていて少し肌寒い感じですね』言われてみれば京極は長袖のシャツを着ている。「早くそちらも梅雨明けすればいいですね」『ええ……そうですね。ところで朱莉さん』急に京極の声のトーンが変わった。「はい、何でしょう?」『まだ暫くは沖縄で暮す事になるのでしょうか? 明日香さんの体調はまだ回復しないのですか?』いきなりの京極の質問に朱莉は戸惑った。「え……と、それは……
那覇空港――搭乗ゲートに琢磨が行くと、既に翔の姿があった。「おはよう、琢磨」翔が躊躇いがちに声をかける。「ああ、おはよう」琢磨は少し不機嫌に返事をする。「その……悪かった。朱莉さんの具合はどうだ?」「昨夜風邪薬を飲ませたからな。もう今朝は熱が下がっていたようだ。元気そうだったしな」「そうか、なら良かった」翔は頷くも、違和感を抱いた。(今の言い方は何だ? まるで朱莉さんの様子を見て来たみたいだ)そこで翔は琢磨に尋ねることにした。「琢磨。お前、宿泊した部屋は確かスイートルームで部屋があまっているって言ってたよな?」「ああ、言った」「ひょっとして朱莉さんをお前の部屋に宿泊させたのか?」「何だ? 悪いか。病人を放っておけるはず無いだろう? お前達じゃあるまいし」琢磨はモルディブの件を持ちだしてきた。「い、いや……確かにあの時は本当に悪いことをしてしまったと思っている」「お前のその台詞はもう聞き飽きたよ」ぶっきらぼうに答える琢磨。「そ、それより……本当に朱莉さんをお前の部屋に泊めたんだな」「ああそうだ。心配だったからな」「琢磨。お前……」その時、館内放送が流れた。翔と琢磨の乗る便の案内であった。「よし、それじゃ行くか。翔」琢磨は荷物を持った。「そうだな。着いたらすぐに仕事だ」2人は東京行の搭乗ゲートへ向かい、飛行機に乗り込んだ。飛び立つ飛行機の中で琢磨は朱莉のことを考えていた。(朱莉さん……どうか元気で。今度は俺から会いに行くから……)そして琢磨は瞳を閉じた—―**** 朱莉は今、ホテルのレストランで朝食をとっていた。すると昨日琢磨に声をかけてきた2人の女性が中へ入って来た。そして朱莉と偶然目が合う。2人の女性は目配せし合おうと、何故か朱莉の方へと近付いて来た。「おはようございます、昨日はどうも」セミロングのやや釣り目の女性が朱莉に挨拶をしてきた。「おはようございます」朱莉も挨拶をしたが、不思議でならなかった。(この人達……どうして私に声をかけてきたんだろう?)「今朝、彼氏さんは見かけないようですけど、どうしたんですか?」別の女性が続けて尋ねる。(彼氏さん……? 九条さんのことかな?)「彼なら今朝、東京へ戻りました。仕事があるので」「まあ。彼女を置いて1人で東京へ? それってちょっと冷
翌朝、朱莉は隣の部屋の物音で目が覚めた。「……?」時計を見るとまだ時刻は6時前である。「九条さん……?」(ひょとして、もう出掛けるのかな?)朱莉も急いで着替えると、九条の部屋をノックしながら声をかけた。「おはようございます、九条さん」すると隣から琢磨の返事が聞こえた。「え? 朱莉さん……?もう起きたのかい?」「はい。あの……ドア、開けてもいいですか?」「ああ。いいよ」「失礼します」朱莉がドアを開けると、スーツ姿の琢磨がいた。「おはよう、朱莉さん。もう起きても大丈夫なのかい?」「はい。もう大丈夫です。お薬が効いたみたいですね。色々お世話になりました。それで……もう那覇空港に行くのですか?」「ああ。7時の羽田行の便に乗るんだ」「翔先輩も一緒ですか?」朱莉は躊躇いがちに尋ねた。「うん。そうだよ。空港で待ち合わせをしている」「あの……私……」「見送りは別にいいからね」朱莉が何を言おうとしたのか琢磨に意図が伝わった。「え? でも……」「朱莉さん、レンタカーはもう返却してあるんだ。俺はタクシーで空港へ向かう。だから朱莉さんとはここでお別れだ」「九条さん……」「もう部屋の支払いは済んでるし、10時まではこの部屋に居られるからそれまではここで休んでいるんだ。ホテルを出る時フロントに声をかければいいからね」琢磨は内心の気持ちを隠しながら言った。(くそ……! 本当は今すぐに一緒に東京へ連れ帰りたいのに……!)「色々お世話になりました。感謝しています」改めて頭を下げる朱莉。「いや、いいんだよ。むしろこんな所まで連れてきてしまったことが申し訳ない位なんだから」「でも……」「毎晩……」「え?」「い、いや……毎晩、沖縄での様子をメッセージで送って貰えると安心かな?」「はい、分かりました。報告ですよね? 必ず入れますね」朱莉は笑みを浮かべて頷く。「報告……」琢磨は口の中で小さく呟いた。別に報告して欲しいとの意味で言ったわけでは無い。ただ朱莉が心配で、メッセージのやり取りをしたくて提案したのだが、朱莉にとっては『報告』と取られたことがやるせなかった。(所詮、朱莉さんにとって俺は、翔の『秘書』でしかないんだろうな……)しかし、それでも構わないと琢磨は思った。自分は朱莉にとって相応しくない人間だ。だから自分が朱莉に出
「九条さん……」ポツリと呟くと朱莉の気配に気がついたのか、電話をしていた琢磨が朱莉を見た。すると琢磨は電話の相手に怒鳴りつけた。「朱莉さんが目を覚ました。電話切るからな!」琢磨はスマホの電話を切ると朱莉に声をかけた。「朱莉さん! もう大丈夫なのかい?」「はい。お陰様で頭痛も治まりましたし、熱っぽさも大分改善されました」それを聞いた琢磨はソファから立ち上がり、朱莉に歩み寄ると自然な動きで朱莉の額に手をあてた。「うん。もうさっきみたいな熱っぽさは確かに無いな。良かった……心配したよ。いつから具合が悪かったんだい? もっと早く教えてくれれば倒れる前にホテルに帰ったのに。でも、気付かなくてごめん」琢磨の謝罪に朱莉は首を振った。「違います! 私がもっと早くに九条さんにお話ししていれば良かったんです。悪いのは私ですから」「だけど俺に迷惑がかかると思って言えなかったんじゃないのかい?」琢磨は少し寂しげに言う。「!」確かに琢磨の言う事は一理あった。だが朱莉自身倒れる程に具合が悪化するとは思ってもいなかったのだ。「翔には俺からきつく電話で言っておいたよ」「え?」「あいつの……翔のせいだろう? あいつの心無い言葉で莉さんをまた傷つけて、そのショックで具合が悪くなったんだろう?」「そ、それは……」「明日、東京へ帰るのを1日伸ばそうかと思っているんだ。朱莉さんが心配だから」琢磨の言葉に朱莉は驚いてすぐに返答した。「それは駄目です!」いつにない、朱莉の強い口調に驚く琢磨。「え……? 朱莉さん?」「お願いです、もう私のことでこれ以上九条さんを振り回したくは無いんです。だから明日は予定通りに東京へ戻って下さい。もう熱はこの通り下がったので大丈夫です。引っ越し作業もちゃんとしますので九条さんが心配される必要はありませんから」「だけど……」尚も言い淀む琢磨に朱莉は続ける。「九条さんが秘書を務める相手は私ではありません。翔せんぱいなんです。私ではなく、翔先輩を優先して下さい。そうじゃないと九条さんに申し訳なくて……私は九条さんと距離を置かなければならなくなります」「朱莉さん……それは……」(それは俺が朱莉さんを心配するのを迷惑だと思っているからなのか?)琢磨が悲し気に俯いたのを見て朱莉は慌てた。何故九条がそんな顔をするのか理解できなかったのだ
築30年の6畳一間に畳2畳分ほどの狭いキッチン。お風呂とトイレはついているけど、洗面台は無し。そんな空間が『私』――須藤朱莉(すどうあかり)の城だった。――7時チーン今朝も古くて狭いアパートの部屋に小さな仏壇の鐘の音が響く。仏壇に飾られているのは7年前に病気で亡くなった朱莉の父親の遺影だった。「お父さん、今日こそ書類選考が通るように見守っていてね」仏壇に手を合わせていた朱莉は顔を上げた。須藤朱莉 24歳。今どきの若い女性には珍しく、パーマっ気も何も無い真っ黒のセミロングのストレートヘアを後ろで一本に結わえた髪。化粧も控えめで眼鏡も黒いフレームがやけに目立つ地味なデザイン。彼女の着ている上下のスーツも安物のリクルートスーツである。しかし、じっくり見ると本来の彼女はとても美しい女性であることが分かる。堀の深い顔は日本人離れをしている。それは彼女がイギリス人の祖父を持つクオーターだったからである。そして黒いフレーム眼鏡は彼女の美貌を隠す為のカモフラージュであった。「いただきます」小さなテーブルに用意した、トーストにコーヒー、レタスとトマトのサラダ。朱莉の朝食はいつもシンプルだった。手早く食事を済ませ、片付けをすると時刻は7時45分を指している。「大変っ! 早く行かなくちゃ!」玄関に3足だけ並べられた黒いヒールの無いパンプスを履き、戸締りをすると朱莉は急いで勤務先へ向かった。**** 朱莉の勤務先は小さな缶詰工場だった。そこで一般事務員として働いている。勤務時間は朝の8:30~17:30。電話応対から、勤怠管理、伝票の整理等、ありとあらゆる事務作業をこなしている。「おはようございます」プレハブで作られた事務所のドアを開けると、唯一の社員でこの会社社長の妻である片桐英子(55歳)が声をかけてきた。「おはよう、須藤さん。実は今日は工場の方が人手が足りなくて回せないのよ。悪いけどそっちの勤務に入って貰えるかしら?」「はい、分かりました」朱莉は素直に返事をすると、すぐにロッカールームへと向かった。そこで作業着に着替え、ゴム手袋をはめ、帽子にマスクのいでたちで工場の作業場へと足を踏み入れた。このように普段は事務員として働いていたのだが、人手が足りない時は工場の手伝いにも入っていたのである。 この工場で働いているのは全員40歳以...
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