父親を亡くし、入院中の母を養っている私――須藤朱莉は、ある大手企業に中途採用された。けれどその実態は仮の結婚相手になる為の口実で、高校時代の初恋相手だった。 二度と好きになってはいけない人。 複雑に絡み合う人間関生活。そしてミステリアスに満ちた6年間の偽装結婚生活が始まった――
View More「あら、朱莉さん。もう上がって来たの? 随分早かったけどお風呂場掃除はしてくれたのかしら?」奥のリビングから明日香の声が聞こえてきた。「はい、明日香さん。御風呂場掃除してきました」朱莉がリビングを覗くと明日香は巨大シアターで何やら洋画を観ている最中だった。そして明日香は眠くなったのか欠伸をしながら言った。「朱莉さん。悪いけどベッドルームには貴女を入れる訳にはいかないのよ。何せあの場所は私と翔の特別な場所なんだから。リビングのソファはソファベッドにすることが出来るから、貴女はそこで寝て頂戴。布団なら用意してあるから」いちいち嫌みな言い方をして明日香は朱莉の反応を楽しんでいるような素振りを見せるが、朱莉は心を無にして耐えた。「有難うございます。それでは私はリビングで休ませていただきますね」朱莉は明日香から布団を借りるとリビングのソファをベッドに直し、電気を消して横になったがちっとも眠くは無かった。その時――リビングの隣の部屋のベッドルームから明日香の声が漏れてきた。「ええ……うん、大丈夫よ。……ふふ……ありがとう。愛してるわ翔」『愛してるわ翔』何故かその言葉だけ、朱莉の耳に大きく響いて聞こえた。朱莉はギュッと目をつぶり、唇をかみしめた。(隣のベッドルームで明日香さんと翔先輩は愛し合って……明日香さんは翔先輩との間に赤ちゃんが……)脳裏にモルディブで偶然明日香と翔の情事を見せつけられてしまったあの時の記憶が蘇り……朱莉は布団を被り、声を殺して泣いた――お願い、早く夜が明けて―と祈りながら—ー****—―午前1時 琢磨はホテルの部屋で1人、ウィスキーを飲んでいた。手にはスマホを握りしめている。「くそっ!」琢磨はベッドにスマホを投げ捨てると、グラスに注いだウィスキーを一気に煽った。本当なら今夜朱莉にバレンタインのお礼を電話で言うつもりだった。だが、朱莉は今明日香に呼びつけられて同じ部屋にいる。そんな状況では琢磨が電話を掛ける事は出来無かった。「全く……明日香ちゃんは何処まで朱莉さんを振り回すつもりだ……」琢磨はイライラしながら再びグラスに氷を入れるとウィスキーを注いで飲み干すと乱暴にテーブルの上に置いた。それにしても何故だろう。今夜は何かどうしようもないほどの胸騒ぎを琢磨は感じていた。子供の頃から琢磨は異様なほど勘が優れていた
「ぼ、母子手帳……」朱莉は明日香の差し出した手帳を信じられない思いで見つめていた。「ウフフ……。最近遅れているなって思って朝検査薬で調べたら妊娠反応があったのよ。それですぐに産婦人科に行ったら3カ月ですって言われたの」明日香は嬉しそうに笑みを浮かべながら食事を口に運ぶ。「まだ悪阻は無いんだけどね~最近お腹が良く空くのよ。それに不思議よね? 妊娠すると食べ物の嗜好が変わるみたいなの。以前の私ってあんまりお肉料理が好きじゃなかったんだけど、最近お肉が好きになったのよ。ひょっとすると生まれて来る子もお肉が好きな子になるかもね~」明日香は饒舌に話しながら肉料理をカットして口に運んでゆくが……当の朱莉はすっかり食欲は皆無だった。「あら? 朱莉さん。貴女殆ど食事に手を付けていないじゃないの? そんなんじゃ困るわよ? 私が妊娠したからにはこれから貴女には色々協力して貰わないといけないんだから」「きょ、協力ですか……?」「ええ、そうよ。でもその話はまた今度にしましょう。朱莉さん、光栄に思いなさいよ? 私の妊娠の話はまだ翔にも話していないんだからね? 貴女に一番に話したんだからね。何故か分かる?」「……」朱莉は黙ってしまった。「あら、忘れちゃったの? ならもう一度教えてあげる。いい? おじいさまが会社を引退するまでは私と翔は結婚する事が出来ないの。だから私が翔の子供を産むわけにはいかないのよ? つまり、朱莉さん。貴女が自分で産んだ事にしなくてはならないんだからね? それに私は子供が苦手だから、当然育てるのも貴女なのよ? まあある程度……よく子育ては2歳までが一番大変だって言われてるようだから3歳までは朱莉さん。絶対に貴女がこの子を育ててね。だからその為に6年という結婚期間を設けたんだから」明日香は自分のお腹に触れた。「!」実は朱莉はあの契約書を交わした時……半分は冗談だと思っていたのだ。仮に明日香が妊娠した場合、恐らく母性本能が芽生えて自分で子育てをすると言いだすと思っていたの。だがどうやら明日香は妊娠しても変われないのかもしれない。その後も明日香は子供が生れても翔と2人で過ごす時間を大切にしたいから自分達の邪魔を決してしないよう明日香に言い聞かせ続けるのだった—―「ふう……お腹一杯。妊娠するとね、すごく眠くなるのよ。朱莉さん、後片付けよろしくね。私
――17時時 翔のスマホに明日香からメッセージが入ってきた。明日香のことが心配だった翔はすぐにスマホをタップしてメッセージに目を通すと呟いた。「ま……まさか……本当に……?」近くにいた琢磨はその言葉を聞き逃さなかった。「どうしたんだ翔。今のメッセージ、明日香ちゃんからなんだろう? 一体何て書かれてあったんだ?」「実は朱莉さんが今夜明日香が1人で部屋に居させるのは心配だからと言って泊まり込みに来てくれることになったらしいんだ」翔は呆然とした顔で琢磨に言った。途端に琢磨の顔が険しくなる。「何だって!? 翔……まさかその話、鵜呑みにするつもりじゃないだろうな!?」「……」しかし翔は答えない。「いいか……? 確かに朱莉さんは俺が今夜は出張で東京にいないことは知っている。だが、翔。お前も出張だという話は知らないんだぞ? それなのに明日香ちゃんに今夜は1人だから自宅に泊ってあげるなんて言うと思ってるのか?」琢磨は怒りを抑えながら翔に質問をぶつける。「言うはず無いのは分かっている……。確かにこれは明日香の勝手な言い分かもしれないが、明日香は夜1人で過ごすのが不安なんだよ。だから朱莉さんに頼んだんじゃないのかな?」しかし、琢磨はそれを一喝した。「ふざけるな! 明日香ちゃんが素直に朱莉さんに頭を下げるものか! 恐らくお前の名前を出したに決まってる。きっと命令だとか何とか言ったんじゃないのか? ……気の毒に……」琢磨の最後の言葉は消え入りそう小さかった。「……そう……なのだろうか……?」しかし、いまだに翔は明日香の話を半分は信じようとしているのが琢磨には分かった。そこで琢磨は言った。「いいか!? 今度から明日香ちゃんの我儘に朱莉さんが振り回された場合は……いつもの手当てに倍乗せしてやるんだな!」言いながら琢磨は包装紙に包まれた箱を翔に渡してきた。「これは何だ?」「言っておくが、お前のじゃないぞ? 朱莉さんへのおみやげのういろうだ。彼女に渡してやってくれ。……俺はこれから名古屋支店の得意先へ顔を出してくる」琢磨はコートを羽織ると足早にオフィスを出て行った――****――18時 朱莉が部屋のチャイムを鳴らすと、早速明日香が出迎えに現れた。「いらっしゃい。朱莉さん、待ってたわよ?」赤いワンピースにドレスアップした明日香が笑みを浮かべる。
朱莉が自宅へ戻ると、何と玄関前に明日香が立っており、危うく朱莉は悲鳴を上げそうになった。「何よ。人のことをそんなに驚いた顔で見て。それより朱莉さん。今まで何処に行ってたのよ」明日香は機嫌が悪そうに腕組みをしている。(どうしよう……)一瞬朱莉は迷ったがここで変に隠し立てして後で明日香に真実がばれる位なら、今ここで全て白状した方が良いだろうと朱莉は判断し、正直に話す事にした。「あ、あの明日香さん。実は犬の引き取り手が決まったんです。それでその方の自宅にペットフードやエサ入れ等を届けてきたところなんです」すると明日香が目を輝かせた。「あら、朱莉さん。早速犬の引き取り手を見つけてきたのね? ということはもうあの犬はここにはいないのよね?」「は、はい。もういません」明日香の笑みに心を傷付けられながらも朱莉は返事をした。「そう、言われたことをすぐに実行に移す人は嫌いじゃないわよ。それで……」チラリと明日香は朱莉を見ると言った。「お茶の一杯くらいは入れて貰えるかしら?」「はい。気が付かず申し訳ございません」慌てて朱莉は鍵を開けると、明日香を招き入れた。明日香は部屋に上がり込むと、ジロジロと部屋中を見渡す。「ほんとに相変わらず何も無いシンプルな部屋よね……。これならいつでもすぐにこの部屋から出て行けそうよね?」意味深な明日香の言葉に思わずお茶の準備をしていた朱莉の手が止まる。「いやあね~冗談に決まってるでしょう? これから貴女にはまだまだ役立ってもらわないとならないのだから」またもや明日香の口から意味深な言葉が飛び出し、朱莉の心臓の動悸が早まってきた。(何だか怖い……明日香さん…何か私に依頼することでもあるのかな……?)朱莉は震えそうになる手を必死に抑え、コーヒーを淹れてテーブルの前に置いた。すると明日香が露骨に嫌そうな顔をする。「ねえ。朱莉さん……私今、カフェインは口にしないようにしてるのよ。ハーブティーは無いのかしら?」眉をしかめながら明日香が文句を言って来た。「あ……す、すみません。今度用意しておきます……」慌てて朱莉は頭を下げた。「そうね。出来ればカモミールかローズヒップを用意しておいてくれるかしら? 忘れないでよ?」朱莉は足を組んでブラブラさせながら言った。「はい、必ず用意しておきます」すると明日香が突然立ち上が
(明日香……今夜は自宅に一人ぼっちにさせてしまうことになるが、大丈夫だろうか……?)「どうした、翔? ボーッとして」いカレーを食べ終わっていた琢磨は翔に声をかけてきた。「い、いや……。今夜明日香はあの広い部屋に一人ぼっちですごさなければならないから、大丈夫か心配で……って……な、何だよ琢磨。その目つきは……」いつの間にか琢磨は翔を睨み付けていた。「お前なあ……それを言うなら朱莉さんはどうなんだよ? お前と去年の5月に契約婚を結んで、今はもう2月だ。どれだけあの広い部屋で1日中1人で過ごしてきたのか分かってるのか? それを、俺達は最高で後5年間は朱莉さんにその生活を強いる訳なんだぞ? 明日香ちゃんのことばかりじゃなく、たまには朱莉さんにもその気遣いをみせたらどうなんだ? 時には様子を見に行ってあげたりとか……って今更お前に何を言っても仕方が無いか」琢磨は深いため息をついた。「悪いが、俺は明日香の事で手一杯なんだ。朱莉さんのことまでは気にかけてやれない。だからそれなりに彼女には毎月お金を支払っている訳だし……。そうだ、琢磨。お前が時々様子を見に行ってやれないか? 例えば週に1度とか……」その話を聞かされた琢磨の顔色が変わった。「はあ? 何言ってるんだ? それこそお門違いだろう? 大体書類上とは言え、お前と朱莉さんは正式な夫婦なんだから。そこへどうして俺が朱莉さんの所へ顔を出せる? 年に数回とかならまだしも、しょっちゅう顔を出して仮にマスコミに知れたらどうするんだ? これが他の男なら話は別だが、俺はお前の秘書なんだからな? あらぬ噂を立てられて面白おかしく騒がれたらたまったものじゃない。だから翔。俺は朱莉さんに土産を買って来るから、お前から朱莉さんに俺からの土産だと言って渡しておいてくれよ」それだけ言い残すと琢磨はダストボックスに食べ終えたトレーを捨てると上着を着た。「琢磨、何処へ行くんだ?」「まだ昼休憩が終わるまで30分あるだろう? 駅の周辺の土産物屋に行って来る」そう告げると、琢磨は足早にオフィスを出て行った。その後姿を見送ると翔は深いため息をつくのだった—―****丁度その頃――朱莉は京極の部屋の前に立っていた。手にはマロンのペットフードや食器、シャンプー剤などが入った帆布の袋がぶら下げられている。緊張しながらも朱莉はインターホンを
――13時 あの後、琢磨と翔は新幹線に乗って名古屋にある支社に出張に来ていた。昼休憩を取る為にオフィスの外に出て、カレー専門店のキッチンカーに並んでいた琢磨のスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。着信相手は朱莉からだった。(何だろう……? でも丁度昨夜のバレンタインのお礼も言いたかったし、食事が済んだらメッセージを送ってみよう)丁度その時、琢磨の番が回ってきた。「いらっしゃいませ。何にいたしますか?」店主がにこやかに声をかけてきた。琢磨はメニュー表をじっと見つめ……2人分のカレーを注文したのだった……。****「おい、翔。昼飯買って来たぞ」琢磨が2人分の食事を持って、2人の専用オフィスルームに戻って来た。「ああ、悪かったな、琢磨。今コーヒーを淹れるよ」翔は最近各オフィスに導入したばかりのコーヒーマシンがお気に入りで、度々利用していた。「琢磨、お前は何にするんだ?」「う~ん……そうだな。アメリカンにしてくれ」「へえ、珍しいな、いつもならもっと濃い味を好んでいるのに」翔は琢磨を振り返る。「まぁな、今日はカレーにしたんだよ」「へえ~どうりでスパイシーな香りがすると思った。いいじゃないか」「だろう? たまたまビルの外にキッチンカーが来ていたんだよ」「それじゃ俺もアメリカンにするか」翔は2人分のコーヒーを淹れるとテーブルに運んできた。「シーフードカレーとチキンカレーを買って来たが……お前はどっちがいい?」琢磨は2種類のカレーを翔に見せた。「それじゃ、シーフードカレーにするかな」「分かった。それじゃ俺はチキンだな」翔にシーフードカレーを渡すと、琢磨はコーヒーを飲んで笑みを浮かべる。「うん。やっぱりコーヒーマシンを導入して正解だったよ」「ああ。社員達にも好評らしいようだしな」翔はカレーを一口食べた。「美味いな」「ああ。こっちも美味いぜ?」美味しそうにカレーを食べている琢磨の姿を見ながら翔は尋ねた。「琢磨。実は朱莉さんのことなんだが……」「そう言えば、さっき朱莉さんからメッセージが入っていたな。食事が済んだら返信しようと思っていたんだ。丁度昨夜の礼も言いたかったし」「昨夜の礼……?」翔は首を傾げた。「ああ、実は昨夜朱莉さんからメッセージを貰ったんだ。俺にもバレンタインプレゼントを用意してくれたらしくて。今日は
昨日のことだった。京極は朱莉の境遇について、一切尋ねることはしなかった。ただ、尋ねたのはマロンのことについてのみだった。そこで朱莉は咄嗟に母と同じ嘘を京極についてしまったのだ。夫が実は動物アレルギーで、マロンを飼うことが出来なくなってしまったと。そして義理の妹である明日香に言われてマロンを手放さなくなってしまったことを京極に説明したのだった。京極は最後まで黙って朱莉の話を聞き終えると「それなら僕がマロンを引き取りますよ」と言ったのだった――「それでは残りの荷物の件ですが明日またドッグランでお会いしませんか? マロンを連れて行きますので、会って行けばいいじゃないですか?」京極は笑顔で言ったが、朱莉は首を振った。「いいえ……。マロンに会うのは今日で最後にします」「え? 何故ですか?」京極は信じられないと言わんばかりの目つきで朱莉を見つめる。「病気で入院している母に言われたんです。自分の都合でマロンを手放すのに、会いに行くのはあまりにも勝手な行動なのでは無いかって。マロンは嬉しいことに、すごく私に懐いてくれています。でもきっと私が突然いなくなったらすごく悲しむと思うんです。それなのに会いに行けば、きっと私の元へマロンが帰りたがると思うんです。そうしたら京極さんに迷惑をかけてしまいます。ですから……」後の台詞は言葉にならなかった。朱莉は涙が出そうになるのを必死で堪えて俯いた。「分かりました……」京極はメモ帳とペンを取り出すと、スラスラと何かを書いて朱莉に手渡してきた。「これをどうぞ」「あの……これは……?」朱莉はメモ紙を受け取ると尋ねた。「これは僕の自宅の部屋番号です。在宅勤務で殆ど自宅にいますのでいつでもマロンの荷物を運んできていただいて大丈夫ですよ。あ、でも来る前に一度連絡を入れて貰ったほうがいいかな? 僕は部屋の中でもサークルに入れないで放し飼いをしているので、貴女の匂いに気付いてマロンが飛び出して来るかもしれないですからね。玄関の外で荷物を受け取りますよ」「はい、何から何までありがとうございます。それではマロンをよろしくお願いします」朱莉は立ち上がった。「朱莉さん。最後に……マロンを抱いていかなくていいんですか?」「いいんです……。だ、だって……マロンを抱いてしまったら別れがたくなってしまうから……」朱莉は泣くのを必死で堪え
――2月14日「翔、知っていたか?朱莉さんがマロンの引き取り手を見つけたっていう話」琢磨は出社して来た翔に話しかけた。「いや、初耳だ。そうか、決まったのか」返事をする翔に元気は無い。「翔、本当はお前マロンのこと、可愛いと思っていたんだろう? 出来ればずっと朱莉さんに飼い主になっていて貰いたいと考えていたんじゃないのか?」「そうだな。それが朱莉さんの幸せだと思っていたから」翔は上着を脱ぎ、コートをハンガーにかけた。「朱莉さんの幸せ? マロンを飼うことだけが朱莉さんの幸せだと思っているのか?」琢磨はイライラした口調で翔に文句を言う。「琢磨……今日のお前、どうしたんだ? 何だか機嫌が悪そうに見えるぞ?」「機嫌か……。確かにあまり良くはないかもな。悪かった。お前に当たるような言い方をして」琢磨は視線を落とすとPCに再び目を向けた。(どうしたんだ? 昨夜何かあったのか? いや、それ以前に琢磨はどうやって朱莉さんからマロンの引き取り手の事を聞いたんだ?)しかし、翔は琢磨にその事を尋ねる事は無かった。元々朱莉と琢磨は自分と朱莉の連絡事項を伝達する為に個人的にメッセージのやり取りをする仲なのだから、恐らく朱莉から連絡が入ったのだろう……と自分の中で考えをまとめてしまった。その後、暫く2人は無言で仕事をこなし、部屋にはPCのキーボードを叩く音だけが響き渡った――****――午前11時朱莉はドッグランでマロンを伴い、京極と待ち合わせをしていた。朱莉の傍らにはマロン愛用のグッズがキャリーバックの中に沢山入っている。マロンはすでにドッグランの中で楽し気に走り回っていた。そんな姿を朱莉は悲し気に見つめている。その時。「お待たせいたしました、朱莉さん」背後から不意に声をかけられて振り向くと、ショコラを腕に抱いた京極が立っていた。「あ……こ、こんにちは。京極さん」朱莉は立ち上がると頭を下げ、京極の連れているショコラを見ると目を細めた。「ショコラちゃんもこんにちは」「ほら、ショコラ。マロンちゃんと遊んでおいで」京極は腕に抱いたショコラを地面に降ろすと、ショコラは嬉しそうにマロンに向かって走って行った。その様子を見ると、朱莉に声をかけた。「それでは座って話しをしませんか?」「はい」朱莉は促され、再びベンチに腰を下ろすと、京極も席を1つ分空け
――21時「フウ……」マンションに帰宅した琢磨はネクタイを緩めると、テーブルの上にスマホを置いたとき、着信が届いている事に気付いた。着信相手は朱莉からだった。「朱莉さん……? ひょっとするとマロンの件なのか?」『こんばんは。いつもお世話になっております。明日はバレンタインですよね? 九条さんに日頃のお礼としてバレンタインプレゼントを用意させていただいたので、お渡ししたいのですが、どのように渡せばよろしいでしょうか? 住所を教えていただければ少し遅れてしまいますが郵送も考えております』「へえ……。朱莉さんが俺にもねえ……」琢磨はメッセージに目を通し、すぐに朱莉に電話を入れると3コール目で朱莉が電話に出た。『はい、もしもし』「こんばんは。九条です。今メッセージを読みました。ありがとうございます。私にバレンタインプレゼントを用意してくださったそうですね?」『はい。でもどうやってお渡しすればよいか分からなくて……すみません。メッセージを送ってしまいました』受話器越しから朱莉の戸惑った声が聞こえてきた。「あの、もしよろしければこれからプレゼントをいただきにそちらへ伺ってもよろしいですか?」『え!? い、今からですか?』「はい。実は明日は出張で東京にはいないんですよ。なので出来れば今日頂けたらなと思いまして。今から30分程で伺えますので。受け取ったらすぐに帰りますから……如何でしょうか?」『分かりました、ではお待ちしております』琢磨は電話を切ると、すぐに車のキーを取り、再び家を出た。本人は気付いてはいなかったが……その顔には笑みが浮かんでいた。30分後――琢磨が億ションの正面玄関に車を止めた時には、すでに朱莉が上着を着て外で待っていた。「あ……朱莉さん! こんな寒空の下、待っていたのですか!?」琢磨は車から降りると驚いて駆け寄った。「大丈夫ですよ。それ程長く待っていませんでしたから」朱莉は白い息を吐きながら笑顔で答え、琢磨に紙バックを手渡した。「あの……どんなのが良いか分からなくて九条さんはお酒が好きそうなイメージがあったので、アルコール入りのチョコレートを選んでみました。どうぞ受け取って下さい」「……どうもありがとうございます」琢磨は深々と頭を下げて朱莉から紙バックを受け取った。「あ、そう言えば九条さんにご報告があるんです」
築30年の6畳一間に畳2畳分ほどの狭いキッチン。お風呂とトイレはついているけど、洗面台は無し。そんな空間が『私』――須藤朱莉(すどうあかり)の城だった。――7時チーン今朝も古くて狭いアパートの部屋に小さな仏壇の鐘の音が響く。仏壇に飾られているのは7年前に病気で亡くなった朱莉の父親の遺影だった。「お父さん、今日こそ書類選考が通るように見守っていてね」仏壇に手を合わせていた朱莉は顔を上げた。須藤朱莉 24歳。今どきの若い女性には珍しく、パーマっ気も何も無い真っ黒のセミロングのストレートヘアを後ろで一本に結わえた髪。化粧も控えめで眼鏡も黒いフレームがやけに目立つ地味なデザイン。彼女の着ている上下のスーツも安物のリクルートスーツである。しかし、じっくり見ると本来の彼女はとても美しい女性であることが分かる。堀の深い顔は日本人離れをしている。それは彼女がイギリス人の祖父を持つクオーターだったからである。そして黒いフレーム眼鏡は彼女の美貌を隠す為のカモフラージュであった。「いただきます」小さなテーブルに用意した、トーストにコーヒー、レタスとトマトのサラダ。朱莉の朝食はいつもシンプルだった。手早く食事を済ませ、片付けをすると時刻は7時45分を指している。「大変っ! 早く行かなくちゃ!」玄関に3足だけ並べられた黒いヒールの無いパンプスを履き、戸締りをすると朱莉は急いで勤務先へ向かった。**** 朱莉の勤務先は小さな缶詰工場だった。そこで一般事務員として働いている。勤務時間は朝の8:30~17:30。電話応対から、勤怠管理、伝票の整理等、ありとあらゆる事務作業をこなしている。「おはようございます」プレハブで作られた事務所のドアを開けると、唯一の社員でこの会社社長の妻である片桐英子(55歳)が声をかけてきた。「おはよう、須藤さん。実は今日は工場の方が人手が足りなくて回せないのよ。悪いけどそっちの勤務に入って貰えるかしら?」「はい、分かりました」朱莉は素直に返事をすると、すぐにロッカールームへと向かった。そこで作業着に着替え、ゴム手袋をはめ、帽子にマスクのいでたちで工場の作業場へと足を踏み入れた。このように普段は事務員として働いていたのだが、人手が足りない時は工場の手伝いにも入っていたのである。 この工場で働いているのは全員40歳以...
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